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三國屋創業物語
三國屋の歴史は明治29年に畑弥蔵が岡野村東岡屋にタバコと雑貨の店を開いたことに始まる。この弥蔵という人は、滅多に人を誉めない真南条出身の 本荘繁大将が「不世出の丹波の傑物」と最大級の賛辞を送ったほどの人物だったようだ。
丹波篠山の貧しい町家に生まれた弥蔵の才能に期待した両親は、苦しい生活の中から息子を誓願寺で開かれていた小学校高等科へ通わせたのだった。学業を終えた14歳の弥蔵は、雑貨や小間物を 風呂敷に包み、背に負って多紀郡中を行商に歩いた。
こうして開業資金を蓄えた弥蔵は明治29年3月、東岡屋で店舗を借り、タバコや生活雑貨を商う店を構え、三国一の商店を目指して 三國屋と号した。
三國屋は弥蔵の持ち前の人当たりのよさと商才で千客万来の大当たりとなった。
この店はあまりの繁盛に、家主の親戚の 雑貨店の客を奪ってしまい、家主から追い立てを喰い、篠山市西町に移転する事となったがこの西町での営業も連日の大盛況となった。
しかし、弥蔵はこの繁栄に浮かれず店の将来を展望する事を忘れなかった。
その頃丹波篠山の町は町の東部の河原町を中心とした商店街であったが、弥蔵は、本郷房太郎、本荘繁らの働きかけによる篠山70連隊が 岡野村浜谷に建設され、丹波篠山が軍都になる時代の流れを見て「篠山の商業の中心は西へ移動するであろう」と予測した。
商機をとらえると大胆に行動する弥蔵は篠山市二階町の「板惣」の旧店舗を買収する決断をする。現在の二階町からは想像もつかない さびれた通りに、間口八間の構えで、かつては油や醤油作っていた「板惣」の店舗は17年間閉店したままで、裏にある11の蔵は傷み 「お化けが出る」ような状態であったが、弥蔵はこの広大な廃屋を借金して買った。
人々はこの弥蔵の行動を「頭がおかしくなったのではなかろうか」といぶかったが、明治40年の篠山70連隊開設で、活気付く篠山の商店街の賑わいが 西へ移行し、”新開地”二階町に、明治44年新装開店した三國屋呉服店の偉容に接し、弥蔵の先見の明と、決断に感嘆するのであった。
篠山商店街の中心で店舗を構えた三國屋呉服店は高級呉服専門店として、近郷近在から客を集め繁盛したが、大正10年また弥蔵の決断が出た。
弥蔵は今まで田舎特有の「盆暮れ節季払い」を廃し、「現金正札販売」の取引にしたのである。これは現金収入が少なく、酒造出稼ぎの”蔵金”に頼った 郡内の農家に衝撃を与えたが、結局、三國屋呉服店に堅実な顧客を定着させ、農家の消費にも計画性をもたらしたものだった。
この「関西で初めて」という現金正札取引は、第一次世界経済恐慌のパニックの中で、盆と暮れにしか商品お代金を回収できず、年間の価格の変動にも 対応しがたかった当時の呉服店の経営にも活路を開くものとなった。
彼一流の商魂と努力で財を成した弥蔵は、篠山の経済人としての社会貢献も忘れず、昭和10年篠山小学校講堂建築に1万円の浄財を寄付した。 講堂建築費が2万8千円であったことからも、そのスケールがわかるものである。
当時の町長古川岩太郎らと共に、芦森工業篠山工場の誘致にも尽力し、昭和29年80歳で没した。
会社概要
会社名 | 合資会社 三國屋呉服店 |
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ショップ名 | 三國屋呉服店本店 |
販売責任者 | 畑 一弥 |
所在地 | 兵庫県篠山市二階町84 |
電話番号 | 079-552-2148 |
FAX番号 | 079-552-2149 |
メールアドレス | info@kimono3928.co.jp |
営業時間 | 10:00~19:00 |
定休日 | 木曜日 |
三國屋呉服店本店